
黒田清輝という画家の作品を、私は時々思い出します。私にとっては忘れられない、唯一の絵になります。
私は東京都の文京区に、長い間いました。
女子大時代の3年間と、歯学部3年生の専門課程からの4年間。さらに研修医1年目と新婚生活がほぼ同時にスタートして4年間。合計11年間という計算になります。
文京区のお隣りにある不忍池周辺は馴染みの場所で、私はよく上野公園周辺を散策していました。その時に訪れたのが、黒田記念館でした。
黒田清輝という画家の名前を知っていたわけではなく、ふらっと立ち寄った記念館でした。そして、その時に買った絵葉書がずっと、私の勉強机の目の前に飾ってありました。実家を離れるまで、毎日目にしていたその絵葉書の絵が、黒田清輝の「祈祷」でした。
決して、明るい雰囲気の絵ではありません。でもなぜかこの絵を見ると落ち着き、だからこそいつも見えるようにと机の目の前に飾ってあったのでした。
純粋な女の子が、純粋な気持ちで何かを祈っている姿です。
黒田記念館にいつ訪ねたのか、正確には記憶していません。でも、実家の自分の机の上に長年あったということは、学生の頃です。女子大に通っていた頃、普通に大学生活をしながら仮面浪人をして受験勉強をしていたので、その頃だったのかもしれません。
私は当時、今のように神様のことを考えたことなど、まったくありませんでした。ましてやお祈りをすることなど、初詣で神社にお参りに行く時くらいです。
なのに、なぜ私はこの絵に惹かれたのでしょう。今の私ならば、わかるような気がします。
黒田清輝には、生涯を通じて宗教的なものの形跡がほとんど見られないと言われています。つまり、宗教とは関係ない彼が、この絵を描いたということです。
17歳から10年近くもの間フランスに留学していた彼は、そこでヨーロッパの宗教画に触れていたことでしょう。「祈祷」の作品の女の子は、日本人ではありません。このような日常的な祈祷の光景を、目にしていたのかもしれません。
いずれにしても、彼はこのように評価されています。
黒田は生涯を通じて宗教的なものへ心を傾けた形跡は殆どない。これも宗教感情のただよう画面とはいいがたい。黒田の作品には内容がないという批判はこうした面をさしていわれるのであろう。
私は、彼が宗教的なものに心を傾けていなかったからこそ、この表現ができたのだと思います。女の子の純粋さと同じくらい、彼の心の純粋さを感じます。このように書きながら調べてみると、この作品は、彼が22歳か23歳頃に描いたもののようです。やっぱり、と納得しました。
祈りは、宗教的なものとは関係のない、人間の本質的なものです。誰でも、祈ることはできます。
私がこの絵に惹かれた理由は、純粋さと同時に、この絵の中にブレない芯の部分を感じたからです。祈りは、自分の心の中にあります。芯とは、中心です。心の中心に向けてお祈りをしている様子に、女の子の芯の強さとその周囲に漂う静寂さを感じます。
黒田清輝は、明治から大正時代に活躍した洋画家です。明治に入って、急激に日本は海外の文化の影響を受けるようになりました。フランスの印象派に影響を受けて、彼は外光派と呼ばれる画法を日本に持ち込みました。
私は、今回初めて外光派というものの存在を知りました。
外光派とは、屋外で自然の空気や光を作品に再現するグループのことのようですね。屋外で絵画を制作することは今では一般的ですが、当時は画期的なことだったのでしょう。陰影部分の豊かな表現も、その頃から始まったことになります。
光と空気の表現。
私はてっきり、神を表現することなのかと思ってしまいました。光と空気、まさにこれは境目のない無限、神そのものです。
黒田清輝の代表作の中に、「朝妝(ちょうしょう)」があります。フランスで認められて賞を獲得した作品でありながら、日本では批判をされました。日本では裸体の作品は風俗を乱すものとして、公開されるのは憚れるということだったのでしょう。
確かに、日本と海外では、現在でもその違いは垣間見られます。
実を言うと、私の末娘を観察しているとよくわかることがあります。日本人は、恥ずかしいからと隠します。ですが、彼女は恥じらいもなく、露出度の高い服を着ては私に怒られています。小学校低学年までしか日本で過ごしたことのない彼女は、もうすでに日本人の感覚ではありません。私に怒られても、理解できない様子。「そういう目で見る方が、いやらしい。」そんなことをあっけらかんと言います。
確かに、私の記憶には残っていませんが、ドイツに住んでいた頃に近所の湖では素っ裸で水浴びを楽しむ人たちが当たり前のようにいたのだと、姉から聞きました。「え、裸で?」日本人の感覚とは、違いますよね。
名画と呼ばれる宗教画も、裸体が多く描かれています。裸体の彫刻も、一般的です。なぜでしょう。
もちろん感覚的な違いはありますが、私はこう思います。
芸術は、究極的には神の表現です。神が創造した最高傑作が人間なのですから、そのままの人間の裸体の美を表現することは、芸術の領域です。
では、芸術とそうではないものとの境は、何なのでしょう。
あなたは、どう思いますか。
私は神の表現としての芸術に、想いを馳せています。
人間が手や体を器用に動かして、美を表現することは、まさしく神業ではないでしょうか。そのようなものに出合うたびに、心が躍らされます。
これから、そのような出合いが体験ができる場を、創っていきたいと思っています。