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瞑想と独り言

これは、私の独り言です。

瞑想といえば、特別な人がするものだと思われがちですが、そんなことはありません。
瞑想を習いに行ったのに、雑念を止めることができなくて、どうにもならないと聞いたことがあります。

格好よく瞑想しているように見える人。
瞑想の達人なら、雑念が湧いてこないというのは全くの嘘で、人間はいっときたりとも、何も思わないではいられない存在です。

達人と言われる人たちが、何を想って瞑想をしているのか、心の声が聞けたら面白いかもしれません。

だから、心配はいりません。
雑念が湧いてこない人なんて、一人もいません。

瞑想がなぜ、特別な人がするものではないと私は言い切るのか。

私はある人が、教科書にも書いていないようなこと、教科書どころか学問としての体系すらないようなことを、スラスラと書いていることを、不思議に思ったことがあります。

その方が、瞑想などしている様子はありません。

そこで、気づきました。
その方は、幼少の頃から野山を駆け巡り、海の中も潜り続けて、自然を長年じっくりと観察し続けてきました。だから、目を瞑って、じっと座って、いわゆる特別な瞑想をしなくても、見えない本質とつながることができて、そこから情報が湧き出していたのです。

もちろん人間には自我がありますから、どれほど純粋な形の情報なのかは、その人次第です。

瞑想とは、目に見えないものを想うこと。

目に見えないものは、あらゆるところに存在しています。
彼にとっては、自然を観察することによって、その背後にある見えないものの正体が彼なりに理解できたのだと考えます。その方は、すべてのものには意識があると理解されています。

ソテツの実

もう一人、私が出会った方に、彫り師の方がいます。
正確に言えば、もうその方は亡くなられているので、ビデオでお会いしました。

彼女は、虫眼鏡で覗いてみてやっとわかるくらいの小さな文字で文章を、ソテツの実に彫刻刀で彫って、作品を残されていました。それは見事な、美しい文字でした。

私は、そのソテツの実の作品(修善寺彫)を見ながら、今は亡き彼女が話をしているビデオを聞いていました。

「作品づくりに集中していると、あれ、自分がどこにいるのか、何なのか、わからなくなりました。(区切りがない、全てが自分、そのような表現をされていたと思います。)ふと少しずつ我に返り、あ、ここに手があった、ここに足があったと、気づくのです。」

このお話を聞いて、これこそが瞑想なのだな、と私はひとりで感動していたのでした。

一心不乱に何か物事に集中していることも、瞑想です。

集中」とは、意識を「心にめる」と書きます。中心とはよく言ったもので、心の中と書きます。意識を心の真ん中に集めたら、まさしくそれは瞑想です。

だから、瞑想を特別なもののように考える必要はありません。

これは私の瞑想についての、独り言です。