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精神修行の「華道」と自由な創造「生け花」

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精神修行の「華道」と自由な創造「生け花」

目次:

  1. 華道は、何を表現するのだろう
  2. 華道の目的は、本当の自分の探究
  3. 悟りへの道、霊性の進化
  4. 花が誘導してくれる、華道のあり方
  5. なぜ美しい表現が必要なのか
  6. 華道は、精神修行

あなたは華道と生け花、どちらを選びたいですか?

私はお花が好きで、時々花瓶にお花を生けています。娘や娘の彼たちから、花束をもらうこともあります。一年前から所有している和風邸宅の敷地内では、季節ごとに様々なお花があちらこちらに咲き、楽しみが増えました。お花は、私たちの生活に潤いを与えてくれます。

しかし今まで私は、華道について触れることも、深く考えることもありませんでした。ただ、日本人として知っておいた方が良いことのような気がして、今回は次のような動画を観てみたのです。

1. 華道は、何を表現するのだろう

Ikebana: Beauty as It is-Spiritual Explorers NHK WORLD-JAPAN

この動画で印象的だったのは、天と地を結ぶようなイメージでお花を「立てる」と表現していたことです。

そして、「お花をどの位置にどの向きに置くのか、お花が誘導してくれる。」と話されていました。お花に、どこが居心地良いのか聞きながら、自分の意思ではなく、お花に従うというのです。

華道は、仏教が中国から日本に伝来した6世紀の頃、仏花を供える風習として始まったようです。華道の発祥の地は、聖徳太子によって建立された京都のお寺で、住職を務めていた華道家元池坊が華道の基礎を作りました。今から500年以上前の室町時代のことです。

現在何百もの流派が存在する華道ですが、日本最古の流派は池坊です。私でも名前を知っているので、大変有名な流派です。現在まで脈々と受け継がれて来ているものですから、華道が伝統や哲学、精神的なものを重んじているものであることは、容易に想像できます。

一方、生け花は、より自由な印象があります。「こうあるべき」という形式的な様式から離れて、個人の創造性を大切にします。生け花は、庭に咲いているお花などを自由に生ける、日常的なものです。

日常生活の空間にある、豊かさ

2. 華道の目的は、本当の自分の探究

華道では、自然のありのままの美しさを、人間が介在することによってより美しく表現します。そのために、伝統的な様式が受け継がれてきました。もちろん華道の世界も様々な流派があり、それは組織ですから、私が勝手に想像するところ、人間関係や権力、派閥などとまったく無関係ではないでしょう。

ただ共通していることは一点、目的は自然美に触れ、それらを表現することによって、精神的なものを得ることにあります。

華道は精神修行、悟りを開くためにある、などという記述を目にします。日本の伝統文化の奥深さを感じます。華道は元々仏教から起きているのですから、精神的なものを目的していることは大いに納得できます。

華道、神道、茶道、弓道、、すべて目的は同じです。

日本の伝統文化には、道とつくものが多く存在します。「その道を極める」という表現もあります。これらすべてに共通している道とは、どのような道なのでしょうか。

それは、悟りへの道です。神(人間を創り、宇宙を創り、それを動かしている存在)を知るための道です。人間は日常生活を体験して生きている限り、道は無数にあっても、目指しているものは同じです。

3. 悟りへの道、霊性の進化

悟りという字は、左にりっしんべん、右に吾と書きます。りっしんべんは、心のことです。

吾は、自分のことです。五感の五に口が吾という字ですから、見えるもの感じるものを表現することができる「肉体の自分」のことでしょう。

見えない心の自分と、見える肉体の自分、その両方を合わせ持つ自分を知ることが、悟りへの道です。自分を知って、神、宇宙を知ります。自分が起点です。つまり、自分の心が起点です。

よく悟りを開く、などと言いますが、悟りへの道に到達点はなく永遠に続きます。なぜなら、神は無限の存在ですから、人間の五感を通してその一部分を知ったところで、無限の存在を知ることなど到底無理です。

さきほど、私は心が起点だと言いました。見えないものこそが無限で永遠で、心なしには何も生まれませんから、心が起点で最も大切なものです。ですから、日本の文化の道がつくものは、すべて精神的なものを重んじます。

様式や形式、作法などがあるのも、一見現代人からすると型にはまって固苦しいという印象を持ってしまいますが、決してそうではありません。何かを形にする時に、最も無駄なく単純で、最も美しく表現する方法を説いているわけですから、自分を知る、神を知る、最も近道を、教えてくれているはずです。

このように、道がつくもの、また何でもその道というものは、極めれば行くつく先は精神的なものになります。

現在の物質文明は、心を蔑ろにした物質至上主義的な側面が、極端に現れています。その結果、本来は「悟」という字の通りに、見えない心と見える肉体がバランスよく存在するべきものが、肉体など物質ばかりに重点を置かれるようになりました。

ですから、日本の伝統文化の精神性に対する考え方というものは、今後とても重要な役割を担っていくことになるのではないでしょうか。

4. 花が誘導してくれる、華道のあり方

「自分の意思が花を生けるのではなく、花が誘導してくれる。」さきほどの動画で語られていたように、まるで人間が花や植物と心の中で会話をしているような表現が、印象的です。

華道の道は、自分が何者か、神とは何か、ということを追究する道です。なぜその道を極めると、植物の心が理解できるようになるのか、不思議ではありませんか。

神は、有限でしょうか、無限でしょうか。もし無限ならば、その神という存在は、自分の中にも、植物の中にも、ありとあらゆるものの中に存在するということになります。神の素材からできている見えない人間の心も、植物の心も、波長を合わせれば、共鳴して通じ合うことができるのです。

5. なぜ美しい表現が必要なのか

美しいものと醜いもの、どちらが好きですか。人間は本来、美しいものを美しく表現することが得意な生き物です。それはなぜでしょうか。

神がこの世を創ったのは、美しい表現をしたかったからです。その美しい表現をする役割を、人間は持っています。神が創った自然、花、植物は、あるがままで美しいのです。その美しさ、自然美を、人間が介入することによってより美しく表現する、それが芸術です。

ならば、神が表現したい美しさを想像しながら、美しさを自分なりに表現してみるのはいかがでしょうか。神の天と、人間の地を結ぶ、中立的な美の表現です。

華道、茶道など道のつくものは、動作や所作のひとつひとつを大切に美しく表現します。人間と神が一体となって、美の表現をします。そのひとつひとつに、意識を集中して、行うことには、大きな意味があります。

私たちは普段、何気に無意識に何かをしています。

例えばお茶碗を洗いながら、誰々に何々を言われた今日の出来事を思い出していたり、今、目の前で行っていること以外のことに、意識を飛ばしています。

しかし、華道や茶道、道のつくものは、そうはいきません。今の目の前のことに、意識を集中させながら、神.自然を想い、神.自然を表現するのです。外側にあるものではなく、自分の心、そして神.自然に意識を集中させます。

つまり、瞑想を、同時に行っているのです。

6. 華道は、精神修行

華道は精神修行だというのは、このような点にあります。人間は何事も繰り返し同じことを練習することによって、表現力が上達して美しい表現ができるようになります。私は経験したことがありませんが、神と一体化した表現ができるようになったら、それこそが悟りを得たという意識状態になるのではないでしょうか。

華道に限らず、すべての芸術、日常生活においても、私たちは常に何かを表現しています。その表現力がまだ幼くて、この人間社会は自然を破壊し、人々の心をも破壊して、欲望のままに突き進んでいます。しかし、いつの日か、私たち一般的な人間も、豊かな表現力で、美しい表現ができるようになります。日々様々な体験しながら、精神的な修行をしている最中です。

お花が好きな人は華道を、お茶が好きな人は茶道を。学生時代、私は書道が好きでした。なんでも良いので、日本の伝統文化、伝統芸術を嗜んでみるのはいかがでしょうか。きっと、間違いなく、心豊かな時を過ごせると思います。