
―先住民の伝統食と近代食その身体への驚くべき影響
これは私が歯科医師になってから読んだ本の中で、とても衝撃的な内容のものでした。
アメリカのミシガン大学のウェストンプライス博士が、1930年代に世界各地を回って、原住民の食生活と歯並びの関係について調査をして、書かれたものです。
現代文明と接触し始めた世代の、もう次の世代には、今まで当たり前のように綺麗な歯列だった人々に、明らかな劣化が始まるという事実です。現代文明の食とは、小麦をはじめとする精製食品や缶詰などのことです。
自然な食を手離した人類の、顔面の劣化が、歯並びの乱れから理解できるという衝撃的な事実です。それと同時に、本来の全身的な健康を、私たちは自ら奪うことになったというわけです。
〈訳者あとがきより〉
食事が適正でないいくら高価な贅沢食であったとしても、それは必ずしも栄養的にバランスのとれた正しい食事ではないー場合に、身体にどのような悪影響を与えるか、特に口腔疾患についての深い関わり方一人ひとりに話し、納得の上食習慣を見直してもらうことは至難のことである。
私がちょうど二十歳の頃、矯正治療を始めました。そして二十歳になった娘が、矯正治療を先週から始めました。
私が矯正治療をしていたのは、歯学部の学生の頃でした。
先輩の実験台になっていた同級生が多い中、私は地元の矯正歯科の専門医のところでやっていました。
歯並びがそれほど悪くなかったものの、切端咬合が気に入らず、また上の姉たちは矯正治療をしたのに自分はやっていない、ずるいと思っていました。結局、高額の治療費を出してまで始める理由が親には理解されず、アルバイトで貯めたお金を自分で出して始めました。
二十歳とは、見た目がすごく気になる、そんな時期だったのでしょう。
結果、私は矯正治療というのがどういうものかということを、身をもって知ることになるのです。
歯学部の学生だった当時、矯正専門医になることにとても興味がありました。歯並びを綺麗にする仕事は、嫌いな血をみることよりも自分に向いていると思ったからです。
でも、私は矯正専門医にはなりませんでした。
理由は、実習の先生にいじめられたこと。ワイヤー曲げが、意外にも自分には合わなくて下手だとわかったこと。いずれにしても、良い印象が残っていません。自然と、選択肢から外れました。
しかし、結果的に、私は矯正専門医にならなくて良かったと思っています。
なぜなら、あのまま教育を受けて何も疑問に思わないで治療にあたっていたらと思うと、ゾッとするからです。
私があることに最初に気づいたのは、自分の子供たちの矯正治療の必要性を感じたときです。このまま大きくなったら、歯がきれいに並ばないであろうことは、明らかでした。
小さな頃から治療を始めて、歯を抜かないで済むならば、それが一番だと考えたのです。二十歳の頃の私は、自分の健康な歯を矯正治療のために抜くことに対して、何にも思いませんでした。でも、親として、そして歯科医師としては、健康な歯を抜くことは避けたいと思いました。
そこで、模索が始まります。様々なセミナーに通いました。床矯正というものを、試してみたりもしました。当時、矯正専門医でなくてもできる方法でしたが、結果的に選択しませんでした。そして、知り合いの先生が勧めるセミナーに参加して、実験台のような形で娘たちの治療を始めてもらいました。
今思えば、大変な治療だったと思います。家にいる時にはヘッドギアという、頭から装置を被って上顎を引っ張る装置をつけていました。セミナーの先生の歯科医院の治療台に座ったと思ったら、その途端に外に逃げ出して、私は追いかけて走り回っていたことを覚えています。それほどまでに、子供にとって精神的苦痛でしかなかった、そんな治療法でした。
今でなら、娘に悪いことをしてしまったな、と思います。でもあの頃は「この治療法しかない。」と必死でしたから、そんな風に思う余裕もありませんでした。今、この時期を逃したら、抜歯矯正しか方法がないと、切羽詰まっていました。
抜歯矯正をそれほどまでに否定する理由が、私にはあったからです。
呼吸が苦しい。それを自覚したのは、出産時の輸血で体調を崩してからのことです。元気な時には、それほど気にならなかったのだと思いますが、元気になった今でも呼吸に違和感があります。
なぜ呼吸が苦しいのか。それは抜歯して全体的に顎が後ろに移動させられたことによって、舌の位置が後ろに下げられしまったからです。ほんの何ミリかの違いでも、舌は本来ある位置に落ち着いているべきところ、常時引っ込められるわけですから、その分気道が塞がって、呼吸がしづらくなります。顎を前に出すと塞がった気道が緩和されますから、無意識的に姿勢も悪くなります。
自分の体に起きた変化が、矯正治療にあったことなど、私はそれまでまったく気づきませんでした。こんな当たり前のことを、大学では学んだことがありませんでした。
ですから、矯正専門医になった同級生にそのことを話すと、「そんなことを言っているのはお前だけだ。」と、喧嘩状態になりました。子供たちの歯を抜きたくない、親の気持ちは、まったく理解してもらえませんでした。
舌による気道への影響だけでなく、舌骨と繋がっている他の筋肉、さらにその筋肉に繋がっている骨、頸椎にも影響があることは、物理的にも推測できます。
矯正治療は、歯槽骨に圧力をかけると骨の吸収と添加が起きる生体の仕組みを利用して、歯を移動させる方法です。
歯を移動させる、人工的な力を一定期間持続させます。下顎の骨には歯がある歯槽骨だけでなく、顎関節があります。顎関節は、大切な脳のある頭蓋骨と繋がっています。ですから、顎関節やさらには頭蓋骨に、その力の影響が及んでいるはずです。しかし私たち歯科医師は、ほとんどこの顎関節のことを気にしていません。
なぜなら、顎関節は口腔外科の領域、さらにそこに繋がっている脳神経については私たちの専門外で、全くつながりを持った思考をしないからです。
ですが、身体はそんな都合よく術者の専門分野ごとに働いているわけではありませんから、ここに矛盾が生じることになります。
顎関節症の人たちは特に、不定愁訴の傾向にあることは、周知の事実です。ですが、その理由を教えてくれた人はいません。
長年の疑問を紐解いていくと、一つ明らかなことがわかりました。それは、顎関節が脳神経の約半数が通過している頭蓋骨の中の蝶形骨に、繋がっているこということです。食べ物を食べるたびに、そして誰かと話をするたびに、顎関節は健気にも一日何千回も開閉します。その度に、顎関節が左右非対称でリズミカルではない運動を行い、繋がっている蝶形骨を歪み続けているとしたら。。蝶形骨を通っている脳神経に、影響を与えないはずがありません。
蝶形骨のトルコ鞍と呼ばれる凹みには、視床下部と呼ばれるものが収まっています。自律神経、ホルモンバランスの調整を担う重要な部位です。ですから顎関節に関しては同時に、自律神経や内分泌に目を向ける必要性がある重要なものだということになります。
顎関節だけでなく、上顎骨も蝶形骨に繋がっているわけですから、無関係ではありません。
それらの関連付けができないため、「不定愁訴」という言葉で片付けてしまう。そんな構図があるのだと、改めて知ることになりました。
また同時に、噛み合わせについても、上顎と下顎の噛み合わせだけ見ていても見当はずれということになります。まずは顎関節の状態に目を向けなければ、矯正治療も噛み合わせ治療も結果が大きく変わることになるでしょう。
歯並びを改善したら、顎関節症は治癒するのでしょうか。
人間の体は本来、意味のない狂ったことはしません。ある歯が部分的に強く当たるのは、特に天然歯の場合何か意味があって動いたという可能性があります。
例えば、もうこれ以上顎がずれないように、歯が当たって食い止めているとか、何らかの理由があるかもしれません。歯軋りも、ずれてしまった顎の全体的なバランスを再構築するために、当たりが強くなったその歯の部分を、無意識に強く擦り合わせて削っていることも、あり得るのです。歯軋り一つ、正常な身体の防御反応だという視点が、必要なのではないのでしょうか。
ですから、安易に見た目だけを気にして、人工的な手を加えることには、慎重になるべきです。
それでも、矯正治療をして自分の理想とする美しさを手に入れたいと思うのは、当然のことでしょう。自分自身もそうでしたし、二十歳になった娘も同じ気持ちでした。
今まで矯正治療をさせなかったのは、親の責任だと罵られさえしました。
私が歯科医師を離れてから約15年。その間に、技術もずいぶん進んだことを最近知りました。子供の頃から成長に合わせて治療をしなくても、大人になってからでも抜歯をしないで矯正治療ができるようになりました。
さらに、特殊な技術で痛みを最小限にしながら、今までよりも早いスピードで歯を移動させることもできます。
マウスピース矯正も、一般的になりました。
しかし何度も言いますが、歯科医師が全身的な見地から治療を行うことは、ほとんどありません。脳に影響する分野を扱っているという認識には、至っていません。ですから、その点をよく承知した上で、始めるべきだと私は思います。
一番下の二十歳の娘について。今回案の定、抜歯が必要だと矯正専門医に診断されましたが、そうではない方法を私は模索しました。そして、それを叶えてくれそうな一般歯科医に、お願いすることになりました。
彼女の偏頭痛の原因が、彼女のある歯だったことに、私は最近気づきました。(絶版になった昔の本の中に、書かれていました。)それに気付けなかったことを、反省しつつ、その一本の歯によって片方の顎関節の動きが制限されて、顎関節に影響を及ぼしていることにも気付かされました。
これから、彼女の治療の過程と結果を、見守っていくことになります。