
これは、私が日常生活の中で感じていることです。独り言として、聞いてください。
世の中は日々変化して流れていますが、ひとつどうしてもその流れに違和感を感じてしまうことがあります。それは、ジェンダーについてです。
男女関係も様変わりしていて、二十代の娘たちが高校生の頃から、50代の私にとってはおかしいな、と思うことが起きていました。
娘がいつも家に連れてきていた女友達が、後で知ったことですが、実は娘に恋愛感情を持っていたらしいこと。娘の周囲の女の子のお友達が、彼ができたと思ったら、今度は彼女を作ってみたり。私が驚いていると、「そんなこと、普通だよ。」とあっけらかんと言われて。
「でも、それは普通なことじゃないよ。」と言えば、「ママ、それは差別だよ。」と返ってくる始末。
さらに、そんな発言は口外したら絶対ダメだよと、たしなめられました。世の中どうなってしまったのだろうと、私はわけがわからなくなっていました。
さらに、国がらみでジェンダーフリー?なるものが推奨され始めて。私は心の中で、「おかしい、おかしい。」と連呼し続けていました。
昔から、このような人たちはいたけれど、表に出てこなかっただけ。
そう言う人もいますが、本当にそうなのでしょうか。
「ママの考え方は、古いんだよ。」
そこまで言われて、こんなことに新しいも古いもないんだよと、私は声を大にしてずっと言いたかったのです。
しかしそもそも差別って、こういうところに使うものなのでしょうか?
恥ずかしながら、私自身は二十歳ごろまで「どうして私は、男に生まれなかったのだろう。」と、葛藤を抱えて生きていました。
生まれつき負けん気が強かった私は、目立とうとしなくても目立ってしまう存在のようでした。学校の勉強と運動が得意ならば、男の子だったら確実にモテます。周囲に、評価されます。でも、女の子の場合、真逆の反応をされたのです。
「女の子のくせに、気が強い。」「勉強ができたって、ね。」「生意気なんだよ。」
このような言葉は、上級生だったり、同級生の親からも投げかけられました。さらに自分の親からも、「あんたが男の子に生まれていればよかったのに。」と、優しく何処か気弱な弟と比較されながら、そう言われ続けていました。
子供ながらに、男の子だったら良かったのにと、そんな気持ちだけを募らせていったのです。
しかし、なぜ二十歳ごろを境に「私は、女に生まれて良かった。」と思うようになったのでしょう。あの当時、今のようなジェンダーフリーの考え方があったのなら、私はもっと自分らしく生きていけていたのでしょうか。
一見、差別のない社会を目指すことは、素晴らしいことのように見えます。
ただ、私は半世紀以上生きてきて、ふと思うのです。
女性に生まれたことは、変えられない。女性として生まれてきたのに、本来の男性のように生きようとするのは、違うのではないか、と。
米のトランプ大統領が、「男と女しかいない。」というような発言をしたのは、記憶に新しいことです。
男らしく、女らしく。このような考え方は、もう古臭いことなのかもしれません。周囲を見渡してみても、実際のところ”女々しい” のは男性の方が多いような気がします。夫婦の間でも女性の方が社会で活躍して、稼いでいる人も多い。そもそも、以前のような役割分担は、成立しないのかもしれません。
でも、時代や社会が変わっても、絶対的に不変なことがあります。
それは、女性しか子供を産めないという事実です。そして、女性と男性がいなくては、命は決して誕生しません。これは、人間を創った創造主が創った、神の仕組みです。それを人間が勝手に変えることは、できません。
さらに、生物としての役割というものがあります。そう、新しい生命を生み、育てる、ということです。
鳥たちの世界でさえ、このような仕組みの中で生命は循環しています。餌を運び、雌と雌がツガイで協力して、育てます。詳しいことはわかりませんが、雌が育児放棄をしたり、雄が餌運びをサボることなど、ないのだろうな、、と思います。
持続可能、という言葉がいつからか聞かれるようになりましたが、このサイクルが乱れれば持続は不可能ということになります。
つまり、生まれながらにして生物的には役割があって、それを変えようとすれば生命は循環していかないということになります。
今はまさに、その分岐点。
あれは、コロナの頃でした。男性が子供を産むことに成功した?などという記事を英語で見かけました。本気でそんなことを言っているのだろうかと、首を傾げたくなったことを覚えています。
自然の摂理を無視して、人間が今以上に本来の男性らしさ、女性らしさを失ってしまえば、人類は生物学的に破滅に向かうしかなくなっていく。だからこそ、ジェンダーフリーで差別をなくそう、などともっともらしい言葉を鵜呑みにしていたら、どうなってしまうのか、恐ろしい気さえしてきます。
私は、男女平等の教育を受けて育ちました。女の子だからといって差別を受けず、平等に教育の機会を得られました。
男女雇用機会均等法という法律も、私が成人する少し前に登場しました。そして、これらの社会的な流れを当然のこととして、受け入れてきました。男女が平等であることは当たり前で、差別は悪。もちろん、女性の社会進出は当然のことだと考えてきました。
ところが、その当たり前のことに私は疑問を持ち始めました。子供を生み、育てながら、何かが違うと感じ始めたのです。
妊娠した頃から、仕事は難しくなっていきました。つわりでどうにもならなかった頃、周囲にはサボっていると冷たい言葉を浴びせられたこともあります。子供が生まれたら生まれたで、自分の思うようにはいきません。よく熱を出して呼び出され、正直仕事どころではありませんでした。
自分の身体さえ思うようにはいかず、さらに家庭と仕事の両立は困難を極めました。子供が何か少しでも問題を起こせば、義両親からはお母さんが仕事をしているからだ、と責められました。
こうして奮闘しているうちに、子育ても仕事も片手間でできるものではないと、実感したのです。そして、誰も母親の代わりはできないと、そう思いました。仕事の代わりはいくらでもいるけれど、子供たちにとって母親は、私ひとり。
男女平等が当たり前という風潮。その中で、そもそも、男女平等などあり得ない、という結論に達したのでした。
人それぞれ、考え方も経験も違います。何が正解か、なんて比較することはできません。何が幸せか、それも人それぞれです。
ただ、生まれながらにして元々男女平等などあり得ないのだから、男女平等の社会に向かっていくこと自体、無理があると思うのです。いくら女性が頑張ったところで、例えば男性のような力もちにはなれっこない。そして、当然のことながら、男性が子供など産めるはずもありません。ですから、そこを目指しても意味がないのです。
女性の社会進出、自己実現などという、かっこいい言葉の裏で、どんどんと夫だけでは家計を支えきれられなくなっているという、社会的な現実があります。耳障りのいい言葉に踊らされながら、社会全体的には、家庭から益々物質的、精神的な余裕がなくなっていくのはいかがなものかと、思います。
数字だけを追い求めていく社会の皺寄せが、家庭という単位で、しかも一番弱い立場の子供たちに、向けられてしまっています。
もちろん、少し前の時代のように、男性が偉ぶって女性を押さえつけたり、能力のある女性に平等に機会が与えられない、というのは違います。女性が女性というだけで我慢を強いられる、または男性も何かしらの我慢を強いられる、というのもおかしな話です。
そもそも、男女としての性質に違いこそあっても、元々、優劣などはないのですから。
私たちは、陰陽の世界に生きています。陰と陽は、二つで一つ。どちらが欠けても、本来成り立ちません。切りたくても切り離せない、そんな関係です。
そして、優劣もありません。これは法則ですから、その法則から外れれば不自然なこととして、どこかで歪みが生じます。歪みとは、病気だったり社会不安、破壊への道です。陰陽のバランスが崩れれば、必ずそのようになるのが、この世の仕組みです。
陰と陽が調和されなければ、エネルギーは生まれません。例えば、原子核と電子。プラスの陽子とマイナスの電子がなければ、そもそも物質として存在できません。また創造主と人間の関係も、同じです。
一般的な概念、常識についての知識は、私にはありません。ただここで、私の中で陰陽について思いつくものを、メモとして挙げておきたいと思います。
陰 電子 陽 陽子(原子核)
陰 陰極 陽 陽極
陰 人間 陽 創造主、神
陰 女 陽 男
陰 消極 陽 積極
陰 凹 陽 凸
陰 月 陽 太陽
陰 静 陽 動
陰 肉体 陽 霊(見えない魂)
陰 地 陽 天
陰 暗 陽 明
陰 不幸 陽 幸
陰 悪 陽 善
陰 苦 陽 楽
陰 氷 陽 空気
陰 地球 陽 太陽
陰 醜 陽 美
陰 冷 陽 温
陰 偽 陽 真
陰 自我 陽 真我
陰 低 陽 高
陰 下 陽 上
陰 右 陽 左
陰 闇 陽 光
陰 子 陽 親
陰 色 陽 空
陰 見えるもの 陽 見えないもの
陰 マクロ 陽 ミクロ
水は、氷(固体)水(液体)空気(気体)に分けれますが、水は中庸ということで勝手にこのように分類してみました。
美しさは、醜さがなければわかりません。同様に、幸せも、不幸があるからこそ幸せの意味が理解できます。闇は、光がなくては存在できません。また、偽りを知ってこそ真実が見えてきます。
このように世の中は、陰陽のバランスで成り立っています。どちらか一方だけでは、成立しません。+と−のバランスの中で中庸を保ちながら、揺らぎやリズムと共に、この物質世界が表現されています。でもジェンダーに関して、+と−が引き合わなくなりつつあるのは、一体どうしてなのでしょう?
優劣や善悪など、元々人間が勝手に定めた思い込みです。男女に、優劣など元々存在しません。本当の意味での男女平等とは、与えられた性質をいかに生かして、協力し合えるかということになると、私はそう思っています。
ところで、今のような男女平等という風潮がなかった頃にも、今と変わらず優秀で賢い女性たちは大勢いたはずです。今の時代では考えられませんが、その時代の女性たちは陰で立派に男性を支えながらも、表には出てきませんでした。それでも、それを誇りに思いながら、こっそりと活躍してきたのではないのでしょうか。
手柄は男性に、でも実の力は女性が。それで、良かったのです。(私は陰で夫を支える妻、というものに憧れていましたが、残念ながらそうはいきませんでしたけど、ね。)
さて、優劣を掲げながら、男性が創ってきた今までの社会も、間もなく形を変える運命にあるのでしょう。真の意味での男女平等の社会へ。これから、どのような世界になっていくのでしょうね。