神社の意味、今「三島大社」が重要な理由
目次:
- 神社の存在意味
1-1. 無宗教の日本人
1-2. 神社の役割 - 三島大社が、なぜ今注目されているのか?
2-1. 神社参拝の目的
2-2. 目に見えない日本人の魂
2-3. 今この時代に求められていること - 神道の真髄
- 三島に縁がある者として
三島大社という文字を目にしたので、気になって動画を見てみました。
三島大社は、私自身お宮参りや七五三で幼い頃から参拝していた神社です。また、自分の娘たちもその近くで生まれて、お宮参りをしてきました。
その三島大社が、なぜ今重要なのでしょうか。
1. 神社の存在意味
なぜ、日本人は人生の節目や年の節目など、何か事があるたびに神社に行くのでしょうか。
私自身、あまり深く考えたことがありませんが、お参りは日本人の習慣の一つです。
1-1. 無宗教の日本人
特定の宗教に属していない一般の日本人は、自分は無宗教だと思っています。私自身も、無宗教です。
しかし、無宗教と無神論とは違います。
無宗教ではありますが、神様の存在を否定しているわけではありません。唯物主義ではなく、またある特定の神様を信仰しているわけではなく、言葉には表せられない、また偶像などの形にも表すことができない、見えないものの存在を信じているのが、多くの日本人なのではないのでしょうか。
少し前の日本では、「お天道様が見ているよ。」とよく言われていました。良い行いも悪い行いもすべてお天道様はお見通しだからと、子供たちは畏怖、畏敬の念を抱きながら育ったと言います。
八百万の神と言われて、違和感を感じる日本人は少ないと思います。山の神、海の神、岩の神などに限らず、すべてのものに神が宿るという感覚は、誰から教わったわけではないのに、純粋に日本人の心の中にあります。そういえば、一昔前に、トイレの神様の歌がヒットしたこともありましたね。
自分の信じている神様こそ唯一無二である、と他を否定することもありません。
1-2. 神社の役割
私は、実は宗教のことをほとんど知りません。
一般的な日本人のように、お正月には初詣に行き、何かお願い事をしたい時には神社へ行きました。お葬式では、お坊さんのお経を聞きながら手を合わせ、田舎の親戚の家に行けば、仏壇の前で手を合わせてご挨拶をします。
私の周りには、クリスチャンや、宗教団体の方もいます。
ですから宗教のことは知らなくても、何となくはわかっているつもりです。
何でもそうですが、組織というのは人の純粋な気持ちだけでは回っていきません。
最近、鎌倉の鶴岡八幡宮が神社本庁から離脱したという話を聞きました。
宗教というのも組織である以上、純粋な信仰心だけで成り立っているものではないと推測します。
ですから、私は神社が全国各地に作られていく以前の、おそらく神道の原点とでも言うのでしょうか。
そういうものに、とても興味があります。
建物に権威があるわけでも、それぞれの名前がついている神様に権威やご利益があるわけでもないと、私は思うのです。
それでも、人間には何か具体的な物、見えるものが必要ですから、その象徴として神社があり、天照大神を最高神とした神話、つまり物語が語り継がれているのだと思います。
2. 三島大社が、なぜ今注目されているのか?
三島大社についての動画を、ご紹介します。
信じている宗教がある方も、そうでない方も、こういう考え方があるのだな、と思って聞いていただけるとありがたいです。
2-1. 神社参拝の目的
神社参拝には、ガチで祈りに行くわけですよ。本気で祈るには、やっぱりね、その神社にどのような神様が祀られているのか。
そしてその神社の神様が、この日本もしくは、もっと言うとですね、この日本列島にあるいろんな神社っていうのは、それこそこの地球人類を守るために存在してる神様と要は繋がる場所と考えていただいたらいいと思います。
三島大社には、混沌としているこの世の中で、それを良い方向へと転換してくれるような力のある神様が祀られているということのようです。
「いま日本がやばい」というのは、日本人なら誰もが実感していることでしょう。日本だけではなく、世界中がやばい、だからこそ神社参拝なのだと。
三島大社に祀られている神様は、三嶋明神と言います。この三嶋明神っていうのは二柱合わせたお名前なんです。
実際に祀られてる主祭神は大山祇神(おおやまづみのかみ)と 事代主神(ことしろぬしのかみ)、この二柱の神様が祀られています。日本の神様というのは、大きく二つに分かれます。天の神様天津神と、地の神様国津神です。
その中で国津神にあたるのが、大山祇神と事代主神です。今なぜこの日本において、これらの神様にお参りするのが大事かというと
まさに今、日本の風土、大地に根差した感覚というものを、もう一度取り戻さないといけないからです。
実際に、この地球上で何かを動かしていく力があるのは、天津神ではなくて国津神ということのようです。
2-2. 目に見えない日本人の魂
大和魂とも言います。その目に見えない、日本の国の土台を守っているのが、大山祇神。
同じく三嶋神社があるのは愛媛県ですが、愛媛の伊予国風土記には、大山祇神のことを和多志大神と書かれています。
現在では私と書きますが、古代の大和言葉では漢字ではなく音だけが存在していました。それから和多志という当て字が使われたわけですが、動画の中では、縄文時代からこの国を想い生きてきた、その志が多く受け継がれて和合したと、表現されています。
それが、日本人の本体だと。
私とは、和多志。面白い表現ですね。
私とは、自分という自我の私だけではなく、それを超越した存在だということでしょう。
ついでにひとつ、私からお伝えしたいことがあります。
日本語では私のことを、自分とも言います。自分は、「自らを分けた」と書きます。その自らとは、一体何のことでしょうか。これが理解できれば、八百万の神のことも、神道のことも、そしてこの世の中のことがすべて納得できるはずです。
2-3. 今この時代に求められていること
さらに、なぜ今、日本や世界の状況が良くないのか、今起きていることを動画で説明されています。
「今だけ、金だけ、私だけ」
このような行き過ぎた個人主義に、警笛を鳴らしています。そして、このように結論づけています。
今なぜ 三島大社かと言いますと、この日本人が一番変えないといけない意識っていうのが、この私っていう意識のあり方だからなんです。
私っていうのが単なる個人主義、自分さえ良ければいいっていうところを抜け出していかないといけない。
その感覚っていうのを、昔の人は「私=和多志」こういう文字で言い表したんです。日本語っていうのは、本当に不思議な言霊を持っていて、1つの言葉の響きの中に、多重に意味が含まれてるわけですよね。それがこの私=和多志=別名大山祇の神様というところに現れてるわけです。
だからこういう日本人の元々の持ってる性質。危機的なことがあった時に、ガッと団結できるとか、誰から指示があったわけではないけれども、手を取り合える、守り合える。
そういう精神っていうのは、どこから来てるのか。それは別に、誰かから学んだ からできるというよりも、もう血の中に入ってるわけですよ、感覚が。それがこの私っていうものなんです。
けれどこの私っていうものは、今この現代を生きる我々が、意識的に受け継いでいかなければならないし、自分の中にもそういう感覚を目覚めさせていかないといけないわけです。
三島大社こそが、私=和多志を守ってくれる神様。
現状を変えるためには、根底で繋がっている意識が変わっていかないと変わらない。
このように話されています。また、このようにも続けています。
3. 神道の真髄
私というエゴを超えていくのは、私たち一人ひとりの生き方の問題になります。
全人類がこの私を超えていくのが、至上命題。神道は、1人1人の中に魂が宿ってると考えます。
そして人間が生まれてきて死んでいく、その目的というのは、あの世からこの世に魂が顕現してきて肉体に宿り、そこで魂を磨いてる。そういう風に、考えます。全部身に起こること出来事というのは、嬉しいことであれ嫌なことであれ、
魂を磨いていくためにあるんだと。ではその魂を磨いていって、結局何を残していけばいいのかと言えば
この和多志、その精神を残していくということです。だから一人生を生きる中で、どれだけ多くの人と志を共にできたか。しかもその志というのが低い目標ではなく、いかに高い志を共有できたのかというところが、大事なんです。
日本人が持っていた、その共通の志というものを、熱く訴えていたのが三島由紀夫さん。
三島由紀夫さんの三島は、この三島大社の三島に由来しています。
今まさに日本人に必要な感覚、これが三島大社にはある、というお話でした。
4. 三島に縁がある者として
今回の動画では、二柱の神の中でも事代主神のことについては言及されていませんでした。
私はこの名の存在がどのようなものなのか、詳しいことは知りません。
ただ、事代主神と阿波忌部が関係あり、つまり阿波忌部と三島も繋がりがあると本で読んだ記憶があります。
実際に、徳島に2年間住んでいた頃に、三島という地名を見かけたことがあり、不思議に思っていました。
私は三島市のお隣の沼津市で生まれ、その後学生時代の大半を三島で過ごしました。
源頼朝が蛭ヶ小島に流されて、というあの蛭ヶ小島は、高校時代の通学路にポツンとありました。
歴史のことにはまったく興味がなく、ましてや神社や神話のことなど、深く考えたことはありませんでした。
それが、3.11をきっかけに急にそのようなことが気になり始め、現在に至ります。
私自身は、積極的に神社に参拝することはあまりありません。
なぜなら、究極的には、一人一人の意識の中に、一番大切なものがあると感じているからです。だから、どこへいく必要も、誰かと何かをする必要も、そして外の神様に手を合わせる必要も、本当はありません。
それを感覚だけでなく、心の奥底で知った時、本当の「私」というものが見えてくるのではないのでしょうか。
ただ、そこへ至る道は決して簡単なものではなく、根気や集中力が必要なものだと認識しています。
そのためにも、神道のいう日々の「魂磨き」が大切なのだと、私は思っています。