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「何もしない。」という判断と勇気

この一ヶ月ほど、私の血圧は上がりっぱなしでした。

そのままでいいのに、30年ほど前の和風の家の完了検査を受けて、検査済証を交付してもらうと主人が言い出したのです。当時は、建築の工事が完了しても、完了検査というものを受けない場合が多かったそうで、私たちの建物にはそれがありません。

ない場合は、現在の建築基準法に適合させた工事を行なった上で専門機関の検査を受けて、交付してもらうことになります。

なぜ必要なのかといえば、建物を改築をしたり、宿泊施設としての許可をもらったりする時に、なければいけないもののようなのです。さらに不動産を売る場合も、今回私たちが購入したようになくても売買はできますが、あった方が販売しやすいとのこと。

そこで、工事が始まりました。

真ん中の屋根が取り壊され、この後平垣も撤去された。

平垣が道路に10センチほど出ているとのことで、これは違法建築。取り壊しが必要でした。100年は経っていると言われている、倉庫の壁から出ている低い屋根の支えになっているその平垣を、取り壊すことになりました。

そして案の定、危惧していたことが起きました。平垣を取り壊す際に、屋根も一緒に取り壊すことになります。屋根が付いている部分の倉庫の壁が、一緒に剥がれたのです。「どうして、慎重に壊してくれなかったの?」怒りが湧いてきました。さらに私が承知しないまま、仮の木材がその部分に貼られて、それはそれは無惨な姿に変わってしまいました。

そしてもう一つ。

倉庫ではなく、母屋の縁側の上の屋根に水が侵入した跡があり、黒く変色している部分が気になっていました。

その縁側の屋根の上には、2階のベランダがあります。ベランダからの雨水の侵入の可能性があり、ベランダの防水工事は10年に一度くらい必要だからと、防水工事を勧められました。

ベランダの床を剥がして、処分し、放水をしたけれどもベランダが原因ではなかった様子。

それならばと、雨水が強風によって吹き上げられて隙間から入った可能性があると、高圧洗浄機で水を放水したのです。

その結果、確かに水の侵入は確認されました。ただ、縁側の屋根はさらに広範囲に黒く変色し、さらに家の中を伝って障子が濡れてシミができ、周辺の木材にも水の跡、それがさらに床に落ちて床の一部がシミだらけになりました。

「原因がわかりました。屋根の軒下からの水の侵入です。」

和風邸宅
縁側の屋根。放水前の様子。

原因究明に、建物自体にこれだけの損害が発生し、さらに何百万円の出費も発生。

私が日本にいれば、ここまでされることはなかった。夫には任せてと言われたけれど、任せた結果がこの始末。この怒りを誰にぶつけていいのやら。(もちろん、大喧嘩しました。もう耐えられない、離婚する!と私は頭に血が上り、事もあろうに間違えてそのメッセージを第三者に送ってしまったという大失態。笑)

このように私の血圧は、上がりっぱなしで、次から次へと襲いかかってくるトラブルに、私は精神的にも参っていました。

夫にはトラブルという認識がないので、私が一人で怒り、工事関係者に私が途中で物を申して迷惑をかけたと信じて疑わず。本当に、よくわかりません。

私は途中から、お願いだから専門家にみてほしいと懇願していたのですが無視されて、この結果でした。

専門家というのは、和風建築の専門家のことです。ベランダが屋根と一体になっているのは、おそらく和風建築の特殊な構造でしょう。それに、屋根の軒下から吹き上げる雨水の侵入も、和風建築特有なものでしょう。

今更ですが、夫は和風建築の専門家にやっと電話をかけてくれました。

「このまま、何もしないのが一番です。木は生きていて呼吸をしていますから、雨水の侵入を防ぐシーリングをしてしまったら、木はかえって腐ってダメになります。」

そう、言われたそうです。

「何もしない。」というアドバイスをしてくださっことに、どれだけの深い意味が込められていたのか。感謝しかありません。

世の中、余計なことをしてダメになっていることがたくさんあります。

健康だって、余計なことをした結果ではありませんか。自然とはかけ離れた余計なものを食べ続け、効きもしない余計な物を摂取して、治らない、治らないとさらに余計なことを続けた結果。死に至ることだって、当たり前のように起きます。

土づくりと言いながら、余計な物をたっぷりと土の中に入れて、人間の頭で考えた栄養や薬を入れ続けた結果、何が起きているのか。

必要なことは人間の手でやる必要はありますが、必要でないことをやることに、人間は躍起になるのです。それも、良かれと思って気づかずにやるのです。

環境だって、間違って余計なことをやり続けて、破壊していることもたくさんあるはずです。

私が歯科医師に復帰したくない理由の一つも、その余計なことがたくさんあることを知ったから。

人間の手が必要なことはたくさんあります。でも、歯の場合、一度削ってしまったら元には戻りません。治療をすればするほど、健康からは離れていくことを知った時、自分の中で矛盾を感じて嫌になりました。

誤解してほしくないのは、歯の治療にも、必要なことはたくさんあります。ただ、同時に余計なこともあるということです。

今回のことでわかったことは、その道の専門家でないと判断できないことがたくさんあるという事実です。同じ建築の分野でも、違います。その道での経験がなければ、わからないのです。

それに、仕事というのはお金が発生しますから、余計なことをすればするほど、お金が発生します。余計なこととは誰も気づかずに(気づいたとしても)お金も回って、経済も回って、仕事も回っていくのなら、誰もそれを止めようとは思いません。

余計なことだったと気づいた時には、もう遅いのです。

必要なことと、余計なことを見分ける判断をするには、かなりの人生経験が必要です。
そして、余計なことだと判断した場合に、その余計なことを続けないという勇気を持つことは、もっと難しいことです。

この判断と勇気の両方を持つことができた時、世の中は大きく変わっていくのだと私は思います。