
また久しぶりの投稿になりました。
文章で表現することが、少し辛くなっていました。今の人たちは、長い文章なんて読まないのだそうですね。確かに、80代の母にこの「和の学び」が完成した際に見せた時にも、「誰がこんなの読むの?」と言われました。
二十代の娘たちは、当然のこと。私にとっては短い文章でも、「長くて誰も読まないよー。」と言われて、そうか、今の時代はそういうものなのだと、気付かされました。
それでも、本当に伝えたいことは、文章じゃないと。そう思いながら、もうすぐ2年。投稿しては、消したり。当初の計画とは、違う方向に進んでいることもあり、今年いっぱいで別のサイトへ移行する予定です。
和乃森やまきたも、名前を改めます。イベント情報を受け取る登録をしてくださっている方々、本当にどうもありがとうございます。来年には、本格的に開始する予定ですので、今しばらくお待ちください。
さて、11年ぶりの日本の夏を体験したのは、昨年でした。8月末に結婚25周年を迎えて、ずっと日本にいる旦那に会うために来たのでした。ちょうど1週間前に、今回もまた日本に一時帰国しました。まだまだ暑い、日本の夏です。
私は、エアコンが苦手です。
家族とは体感温度が違うのか、エアコンは寒すぎて、体が冷えます。エアコンをつけて寝るなんて、本当は嫌なのです。でも、東京のマンションでは仕方ない。我慢しています。そういえば、新婚当初から夏のエアコンでは喧嘩ばかりしていました。
それに比べて、神奈川県にある和風の家は、快適です。以前より気温が上がっているとはいえ、風通し良く設計されていはずなので、窓を開ければ心地よい風が入ってきます。
もちろん、夜もエアコンなしで眠れます。でもそれは私だけのようで、娘が友達を連れてお泊まりに来ても、最初からエアコンなしでは眠れないと言われるようです。なので、エアコンのある部屋で、掘り炬燵を囲んでお布団を敷いて寝たそうです。
夏はエアコンをつけて寝る。これが、日本の今の一般常識のようですね。旦那も、東京から日帰りで来て、夜はさっさと東京に戻っていきます。(笑)
このように私は大のエアコン嫌いなので、日中もエアコンをつけたくありません。ですが、置いてあった扇風機は2台とも壊れてしまい、外から風が入ってこない時はやっぱり暑い。(ただいま、扇風機を注文中。)
あちらこちら窓を開けて、涼しい風が入ってくる時にはとても心地良く、「やっぱり自然の風が一番!」と、ひとり心の中でつぶやいています。
そして、鳥の鳴き声。私には鳥の名前はわかりませんが、鳥たちの鳴き声が素敵で、癒されています。
来年からは、ここでサロンコンサートを開催します。
空調設備をどうしようかと、ずっと悩んでいるのですが、良い案が思いつきません。音を出すので、夏は窓を開けっ放しというわけにもいきません。
悩んでいる理由は、縁側と廊下で囲まれた和風の家の設計では、エアコンの設置が難しいのです。配管のために、縁側や廊下の景観を損ねるわけにも、いきません。移動式のクーラーも、結局のところ窓から水を排水しなければならないので、そもそも和風の家はクーラーを設置するようには設計されていません。
もちろん、元付けのエアコンのある部屋は、いくつかあります。でも、全館というわけにはいきません。
特注の432hzのグランドピアノも、きっと暑がっているのだろうなと思います。ピアノは、温度の変化に影響を受けると聞いています。暑くてごめんなさい、心の中で、そう思います。窓を閉め切って、ピアノとヴァイオリン(12年半ぶりに日本に持って帰ってきました。)を弾いていたら、汗が吹き出してきました。サウナよりも、効果的!?
ピアノを作ってくださった調律師の方の工房では、エアコンを24時間つけっぱなしでいると聞きました。ここでは、夏は暑くて冬は寒い過酷な環境。ますます、ごめんなさいって、つぶやいてしまいます。
それでも、私はここでのサロンコンサートを楽しみに思い描いています。
吹き抜けのある階段に座りながら鑑賞しても良し。大きな二間続きの和室だけでなく、演奏者の顔が見えなくても良ければ、奥にある和室で寝転がりながら、水のせせらぎと共に演奏を楽しんでも良し。もっとプライベートな空間が欲しければ、2階の洋室でソファーに座りながら、飲み物とおつまみ片手に聴いても良し。
演奏者の演奏を、狭い空間で椅子に座りながら、一斉に演奏者の方向を向いて聴かなくてはいけないというルールはありません。自由に、足を投げ出して、楽に聴くことができるような環境を、と想像しています。
ところで、まったく話は変わりますが、昨日庭で、蜂にしばらく纏わりつかれました。
入り口も庭も、草だらけ。時々東京から来る娘は、それを横目に自分でやろうとは決して思わないようで、ひどい状態でした。ここ数日、私は朝5時起きして、暑い昼間以外草取りに明け暮れていました。(まだまだ、限りなく続く。。)
草取りをしていくと、雑草のジャングルの中から現れる、可愛らしいお花たち。山百合と、、あとは名前がわかりませんが、山百合の白に、黄色、ピンクなど、人知れず健気に咲いている花たちを見て、癒されていました。
そこに、突然一匹の蜂がブンブンと飛んできました。熊との遭遇ではありませんが、じっと過ぎ去るのを待ちます。でも、なかなか過ぎ去ってくれませんでした。私の腕に止まって、じっとこっちを見ていたり。ちゃんと、針まで見えました。隙を見て殺してしまおう、ふとそんなことが頭をよぎりましたが、後悔しそうなのでやめました。
ふと、ニュージーランドの原住民、マオリ族と白人たちの最初の遭遇の場面が目に浮かびました。これは娘に聞いたことなので本当のことかどうかわかりませんが、上陸してきた白人たちを、マオリ族はもてなして歓迎の意を示したそうなのです。そして、次の日。白人たちは、そのマオリ族を殺してしまった。
蜂を目の前にして、私はそのときの白人になったような気分でした。殺そうと思えば殺せる、得体の知れない存在を目の前にして、恐怖でしかなかったのでしょう。やられる前に、やる。蜂にとって、私は好奇心の対象だったのかもしれません。本当は、親しそうに近づいてきたのかもしれません。でも、やっぱり怖かった。
白人たちは、なんて酷いことをしたのだろうと思っていましたが、なんとなく気持ちがわかってしまった。白人たちも、怖かったのだろうな。それに、自分たちの方が上だと思っていた。人間と蜂のように。それが、根本的には間違っているのだけれども。
結局のところ、蜂さんは私を攻撃することなく、どこかに去っていきました。私は、蜂を信じた。だから、蜂も私のことを信じてくれたのだと思います。
蜂も、天気も、自分の体なのに病気も、みんな敵だという気持ちでいたら、ダメなんだろうな。思いひとつで、目の前の現実が変わったような、そんな気がしました。野菜につく虫も害虫という敵、癌という病気も敵。敵だから殺したり、薬を撒いたりして、排除しようとする。虫や病原菌は、本当に排除すべき存在たちなのだろうか?彼らが蔓延る原因を作ってしまった、その根本理由を排除すべきなのに。
大航海時代の延長線で、「都合の悪いものは、排除する。」という考え方は、もう時代遅れにしてもいいのではないのだろうか。久しぶりに自分が医療に従事していたことを思い出して、新しい治療方法などを調べていると、相変わらず薬や外科的な手法ばかりが出てきます。もちろん、絶対必要な時もあります。でも私は血を観ることが好きではないから、「人間って相変わらずだな。。」とつくづく感じてしまいます。
庭のボーボーの雑草たちも、伸びたい放題、広がりたい放題。一見敵のように感じてしまうのだけど、彼らだって、こうやって地上に現れて成長して生きている。「あなたは、もうここにいてはいけないのだから、悪いけど。。」そんな気持ちで草取りをしながら、最後まで愛情?をもって接することにしています。彼らだって、庭の土の栄養に大いに役立ってくれているのだから。
ただ、だからと言って移民を入れたい放題、やらせたい放題ではダメで(移民は雑草ではないけれど)、雑草だって強いものは繁殖し続けて、いつの間にか最初からそこにいたかのように堂々としていて。ダメなものは、ダメ。庭も綺麗に保つためには秩序が必要で、国だって同じだと思うのです。
何事も、理に沿った秩序と調和が大切ですね。
あ、そういえば。玄関の前に、沢蟹が泡をふいて死んでいました。「こんなところにカニ?」玄関横を草取りしていたら、ひょっこり生きた沢蟹が横歩きで木陰に隠れていきました。
調べてみたら沢蟹は、水が綺麗な環境に生きていると、書いてありました。敷地を流れている川(周辺は、町中農業用の水路が張り巡らされています。)から来たのかな?
さて、今回の文章も長かったでしょうか。
時々、ふと感じたことをこんなふうに、記録として残そうと思います。あまりシリアスな話ではなく、気楽に。
では、また。